2017年04月26日 02:05
http://kohada.open2ch.net/test/read.cgi/kankon/1492355053/
何を書いても構いませんので@生活板 43
- 444 :名無しさん@おーぷん : 2017/04/24(月)20:21:59 ID:OUO
- 小学校時代に、「戦争体験談をおじいちゃんおばあちゃんに聞いてくる」という宿題が出た。
で、少女時代を満州で過ごして引き揚げ体験もある父方祖母に聞き取りをした。
ちなみに祖母は終戦時の年齢は10歳。
渡満したと言っても開拓団でも商人でもなく、満鉄社員の父親に連れられて家族で海外赴任していた。
満州の都市圏に住んでいたので百貨店も写真店も映画館もあって娯楽には困らなかった。
物資不足で食糧難の本土よりずっといい生活していたらしい。空襲もないし。
ソ連が侵攻してきた時も港行の避難列車に満鉄社員の家族として優先的に乗せてもらい、
余裕をもって日本に帰れたそうだ。
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- 445 :名無しさん@おーぷん : 2017/04/24(月)20:22:56 ID:OUO
- 両親に連れられて鉄道が待っている駅に到着したら
自分達よりずっと先に駅に到着して電車を待っている町人や開拓団の農民達が団子になっていた。
上等のワンピースにペチコートを羽織り、ピカピカの靴を履いていた祖母と異なり、
皆服装はみすぼらしく、荷物は粗末なリュックや風呂敷のみ。
農民は皆真っ黒で性別が判別できない。
靴もぼろで地元の満州人と変わらない貧相な姿だった。
貧民の存在を知らなかった祖母にはショックだった。
当時の高級ブランド服を身にまとい、
ぜいたく品をたっぷりトランクに詰めていた満鉄社員と家族達は
駅構内で対峙した「貧乏人の群れ」から襲われるんじゃないかと戦々恐々していた。
曾祖母は「あの汚い人達に近寄っちゃ駄目よ」と祖母に言い聞かせた - 446 :名無しさん@おーぷん : 2017/04/24(月)20:24:27 ID:OUO
- やがて駅構内に満鉄社員脱出用の車両が入構し、満鉄社員と親類のみが乗車した。
恨みの視線を浴びながら祖母達も乗車した。
曾祖父母に手を引かれて窓際の席に腰を落ち着けた祖母が窓の外に目をやった。
車外では列車に乗せてもらえなかった群衆が窓際に並び、
社内の祖母達を怒りと怨嗟の表情で見つめていた。
祖母が目をそらそうとした瞬間、祖母をじっ見つめていた若い女性と目があった。
その女性は他の群衆と異なる、懇願するような表情とを浮かべている。
女性の視線は祖母が胸に抱いていた抱っこちゃん人形に注がれていた。
抱っこちゃん人形は級長になったご褒美に百貨店で買ってもらえた
赤ん坊等身大のサイズの高価な人形で、絹のベビードレスとレースのキャップを被っていた。 - 448 :446 : 2017/04/24(月)20:26:08 ID:OUO
- 大人が何故人形をほしがるのか訝しみ、女性を注視すると、彼女は赤ん坊を抱えていた。
子供なのか妹弟なのか親類なのかまではわからない。
ぼさぼさ頭に真っ黒に日焼けした風体から女性は恐らく開拓団だったろう。
その女性の胸に抱かれた赤ん坊はぼろぼろの産着に包まれて
祖母の人形に比べるとあまりに貧弱だった。
ふいに祖母は悟った。
この女性は祖母に抱っこちゃん人形の代わりに自分の赤ん坊を日本に連れ帰ってほしいのだ。
曾祖母にあの人の赤ん坊だけでも連れ帰っていいか聞いてみたかった。
いや、さっさと窓を開けて女性から赤ん坊をもらってしまおうか?
女性の名前と日本に住んでいる親戚の住所と名前を教えてもらって、
帰国後に赤ん坊を女性の親類の家に預ければ良い。 - 449 :448 : 2017/04/24(月)20:27:58 ID:OUO
- ・・・でも窓を開けたらホームにたむろしている避難民達が乗り込もうとしてくるかも知れない。
それに祖母が赤ん坊を受け取ったら他の避難民も自分の赤子を引き取ってくれと主張して、
パニックになるかも。
祖母は窓枠に手をかけたまま、硬直してしまった。
その女性と見つめあったまま・・・。
どれだけの時間が過ぎたのか、やがて列車は動き出してしまった。
祖母は凄絶な虚脱感と自責の念と後悔、そしてわずかな安堵で胸がいっぱいになり
車両で号泣してしまった。
異常が祖母の体験談。とてもじゃないが重すぎて宿題としては提出できなかった。
満州で過ごしたけど無事帰国できましたとだけ書いて提出した。
後日、視聴覚室で戦争体験談が発表された。
空襲がほとんどないような田舎だったからか悲惨な体験談は多くなかったものの
ごくまれに朝鮮に行って曾祖母がソ連兵に連れ去られ行方不明になったとか
東京に嫁いだ祖母の姉が大空襲で死んだとか祖父の兄が戦死したとか苛烈な体験談もあり、
聞く度に祖母の話を胸にとどめておいてよかったと思った。
戦争の悲惨さと言うより「命は平等でない」「死は不条理」「子供は無力」だということを学べた体験だった。
コメント
ペチコート羽織る…?
ペチコートを羽織る、がどうしても気になってしまう
>上等のワンピースにペチコートを羽織り、
変態ですやん!と思ったらみんなそこに引っかかっててワロタw
そのくらい混乱していたと思えば…
おばあさんから聞いた「ペチコート」をコートの一種だと勘違いしちゃったのか・・・。
本人はしんみりした気分で書いただろうになぁ
まさかペチコートを羽織らせたばかりに感想がそっちに流れるとはw
うわー
すごい話だわ
貴重
「ペチコートを着て」と言われだけれど、ペチコートが何か知らないもんでコートの一種だと脳内変換して羽織らせちゃったのかもね
もしくは履くと羽織るを聞き間違えたとか
紛らわしい名前をしたペチコートが悪い
こういう、どうでも良い揚げ足取りをドヤ顔でしてるバカってドンだけ下らない連中なんだろう?
※10
あのね、知らないことがあるのは恥ずかしいことじゃないからね
大丈夫よ
孫に全世界に向けてに変態にされてるとは気の毒に
※11
あのね、わざわざ揚げ足取りしたりあなたみたいなくだらない米残したりする連中がくだらないってのは私も同意見だわ
まぁまぁペチコートでも飲んで落ち着こうよ
うちの母方祖父は今の北朝鮮にいたんだけど、医者だから割と余裕で引き揚げてきたって言ってた。
一方父方祖母は上海で金持ち現地人の二号さんだったのでこちらも割と余裕で、
お屋敷(でかい)の奥の方に匿って貰ってて迫害とかも無縁だったらしい。
日中ハーフの父はしばらくのんびりあっちで暮らしてて、成人してから引き揚げてきたそうな。
なので、この類の聞き取り宿題ではうちの家族はあまり役に立たなかったw
戦前の満鉄社員なんて超のつくエリートだからな
だっこちゃん人形も戦後発売だな
商標としてのだっこちゃんじゃなくて抱きかかえる人形全般の呼び名だと思って書いたのかもしれんが
重い話だねぇ...
ひいじいちゃんは戦争反対記事とか書いて投獄されてたらしくその薫陶を受けたじいちゃんは怪我して徴兵全力回避したので非国民と呼んでくれって胸張ってたなあ。
子供の頃にばあちゃんから聞いた話にしてはディテールが細かすぎる
よって創作決定です
「うちの爺婆のちょっと違う戦争話」ホイホイ?
そろそろそういう体験談が聞けない世代になってきていると思うがそれでも学校は
無理にそういう課題出してくるんだろうか?
たいした体験も皆無な年配者が今は増加しているだろう
年寄りだからタダでものすごい体験できていたと思われる世代は相当当時期待されて見られていたの
だろうとこういう話題が出てくると感じる
※19
昔の文豪たちにも一部思想犯として同じように投獄されていたひともいますね
書いていた作品がそういう内容に当たるとか連載の停止が求められたり
※20
「ペチコートを羽織り」なんて書いてるから祖母に聞いた話なのは間違いないんじゃないかな?
こういう話ってあまり知る機会もないから興味深いと思ったよ
長い
興味深い話だった
もっとよくばあちゃんの話聞いとけばよかった
唯一聞いたのは祖父が集団疎開した母を
東京に呼び戻したことくらいだ
会ったこともない祖父がアホ親父になった
あ…すごく納得。
私の曾祖父も満鉄で働いていて、祖父も満州引き揚げの混乱を体験した。ぜひその体験を聞きたいと思って話をせがんだら、話好きなはずの祖父があまり語りたがらなかったんだ。それで一言、「あちらでは貴族のようだった…」と言ってそれきり口をつぐんだ。
後日、満州の荒野をさ迷った人の体験談の本を渡され、知りたいなら読め、と言われた。
きっとこの話みたいな体験をそのまましたのかもしれない。
うちの祖母は銀行員の娘かなんかで大陸で暮らしてた頃は召し使いにかしずかれるような暮らしだったらしいが、帰るときは無一文で若い娘だったから顔に炭を塗って船に乗ったって聞いたなあ。若い娘だから顔に炭、ってところになんとも言えないものを感じた。
うちのじいちゃん\(3年前に89で亡くなった)は、国鉄マンだったので、駅の貨物を捌いているときに
機銃掃射を受けた話とか、
出征してからは、シベリアに抑留されて鉄道作らされてたって、
だからその話をよく聞いた。
ちなみに、ソ連のオネェチャンはとてもキレイだったそうな。
つらく大変だったが、生き残った!!俺は!!という勇ましい話を
小学生の時によく聞いたもんだから、自分も今じゃ立派なミリオタで右寄りになりましたとさ。
※19
最初は長男と健康上問題のある人は徴兵してなかったのに最後の方は長男も病人も対象になるし学生は繰り上げ卒業してまで出征してた
そんな中で偽装して徴兵回避したら近隣の目が凄かっただろうね
ペチコートなんて頭の片隅にも残らんほど貴重で凄まじい話だったわ。
避難列車が満鉄職員家族や軍人家族を多く運んだのは事実だろうが、
優先だったのかどうかは疑問がある。
農民にも避難の指示は出ていたが『無敵皇軍』を信じてや壮年男性不足で準備が整わないなどで集まらず、やむを得ず関係者ばかりを乗せて出発したと聞いたことがある。
地元の開拓団の引き揚げ後の記録にも同様の記載があったので、そういう例も多かったのだろうと思われる。
悪名高い関東軍だが卑怯と言われては可哀想にも思う。
こういう話す方のボランティアに呼ばれて行ったら
爆撃時の絵も書いて!
絵がヘタ過ぎ、描き直して!
どんどん要求出てきて凹んでるよ、ご近所さん
ペチコートに引っかかってコメント欄覗いたらみんな同じでちょっと安心
母方の祖母は比較的戦争被害の少ない地域だったからか(当たり障りのない範囲でだが)あれこれ話してくれたけど、父方祖母は「皆と同じですわ」としか言わなかったっけなあ
あの世代はいろいろあるよね
親戚の爺ちゃんは、誰もがお手上げだった暴れ馬の前に「お前がどうにかしろ」と引きずり出されて
恐れ戦いて困っていたら、馬が勝手に大人しくなって、妙に懐いたので、以後その妙技を買われて
暴れ馬専門係にされて、下っ端の兵隊だったのに、結構頼りにされた。と嬉しそうだった。
ちなみに、馬がなんで自分の言う事は素直に聞くのか?は、最後まで分からなかった模様。
「おじいちゃん赤狩りで特高に捕まった」って言ってた子がいたわ
祖母は今も生きてたら82か
報告者が何歳なのかわからんが、30代と考えたら録音機器くらいは持って行ったんじゃね?
ペチコートを羽織るとか、抱っこ人形がダッコちゃんになるとか
聞き書きのリアルさが出てていいね
※25
集団疎開ってかなり悲惨だったという話、
体験者の子ども世代はよく聞いたものだった。
のみ、シラミにたかられながら、食べ物もなく、いじめいじめられ
ガリガリにやせ細って、なんてのは割と当たり前に聞く話だった。
子供同士で生き馬の目を抜くように食べ物を奪い合うようにしたりとか、
昔の課題図書にもそんな内容の本があったな。
無論地方、地域や疎開先の違いでかなり違ったと思うが、
引き取りたくなった当時の親御さんの気持ちもわかる。
引き取るのも預け続けるのも、当時の親御さんにとっては相当に辛い判断だったと思う。
自分は聞きかじったり読んだりしただけだけど、
集団疎開の話だけでも、本当にいろんな人が色んな体験してる。
祖母を羨ましそうに、半ば憎悪をこめて見つめていた人たち側の体験談は
藤原てい、の「流れる星は生きている」で読めます。
平和な暮らしから満州脱出の混乱期、日本に戻ってからの辛い日々などが綴られていますが、
悲壮感というよりも、母が母として生きる強さを感じられます。
時間があるならばぜひご一読を。
この報告者の話は、戦争体験者が大勢存命だった時代には出てこなかったものだ。
似た身の上の者同士が、それを確認し合ってからこっそりと「うちは大丈夫でしてね」くらいに言う程度のことはたまに聞いたが、こんな詳細な身に迫るような証言は貴重だな。
報告者に子供がいたり、いとこに子供がいたら、話してあげてほしい
こんな切ない体験を聞いて「命は平等ではない」とかペロッと思っちゃうなんて
ちょっと選民的で怖いなと思ったけど
祖母に戦争体験談を聞いた時に一番印象に残ってるのは、戦争に負けて良かったと言ってた事だな
もちろん戦争は無い方が良いし辛い事も沢山あったんだろうけど、祖母は農家で貧しい思い理不尽な体験をしてて当時の日本は好きじゃなかったらしい
あの戦争に負けた事で格差が広がるのが抑えられたし庶民の生活水準も上がったって言ってたなぁ
※43
でも事実だからねえ……
例えば戦争でなくとも、新型感染症なんかで大パンデミックが起きた時
まず第一にワクチンが優先されるのは医療関係者、次いで子供や老人だし
たぶん上記を差し置いて最優先で割り込める力を持った人が
世の中にはゴロゴロいるんだろうしね。
命は平等じゃないって選民思想なの?
それはおいといて。
貴重なお話だった。
悲惨な経験でないと非国民的な雰囲気があったもんね。
うちの親は子どもだったけど、空襲を遠く山頂から見てすごかった!って言ってた。
火って魅入られるものがあるんだろうな。
※45
パンデミックのワクチン優先権はライフライン(電気水道ガス)維持業従事者、とかも決められてるよ
警察消防自衛隊も勿論そうだろうね
当然政治家も
肺病病みで最後まで徴兵されず造船所で働いてた祖父は爆撃で死んだけどなにも保障はなかった。
軍属ですらないので祖母は子供6人抱えて辛酸をなめたようだ。
母は美形で有名だったそーで島の豪農だった親類に一人だけ疎開して(嫁候補だった模様)毎日白米と卵と牛乳飲んでいたそうだ。そのころの写真は戦時中とは思えない。
丸々太って物々交換でもらった豪華な着物着てるし。鶏肉なんかも結構食べていたと聞く。
母が一人で週に一回疎開先から肉や米と卵をもってかえってたそうだけどよく追いはぎにあったという恐ろし気な話を聞かされたことがある
白米を家で炊くと匂いで近所が怒鳴り込んでくるので外で炊いてたとかなんとか
母の婿候補は戦死して戻らなかったので戦後は家に帰ったそうな。
母方の親類には会うたびにお前のお母さんは戦時中に一人楽をしてた、とぐちぐちうるさいのであまり付き合いはない。
※46
利益を享受している側からペロッと言われてしまうとね。
言い方とか立場の違いだと思うけどね。
その火で焼かれて黒こげになって死んだ人のことも思い出したら
ペロッと、魅入られるものがある…なんて、簡単には言いにくいと思うんだけどね。
簡単に言ったわけじゃないならごめんねw
貴重な話だ
※20
細かくないディテールがあるのかよ
ちょっと無理した文章だけど報告者は幾つくらいなんだろう?
高校生くらいなら可愛い
※43
これ読んで選民思想と受け取っちゃう頭のハッピーぶりはまずいぞ
単に現実の過酷さを言ってるだけだろうに
今時マンガの中だって命が平等に救われたりしないわ
>農民は皆真っ黒で性別が判別できない
婦女暴行被害から身を守るためにあえてそういう格好にしているとみた
※52
お祖母ちゃん、今74歳
大学生か高校生くらいか
うちはあまり悲惨だったのか詳しくは話してもらえなかったな
戦闘機に追われたら、進行方向に逃げないで急いで向かっていって下に入れと言われた
それで本能のまま逃げた友人が目の前で撃たれたと言っていたが…
あと麦ごはんは頑なに食べたがらなかった
ペチコート・ファイヴ
※53
それを、楽に救われてるサイドが言うのは、ちょっとひっかかりはするけどね。
頭がハッピーなのはどっちなんだか。つーか中二病ぽい。
北からミサイルぶっこまれても、同じように平等じゃないキリッって言えるのかな。
うちのじーさんも空襲の火は綺麗だったって言ってたわ。命が燃えてるから、綺麗なんだって。
現場で体験したら、黒こげのご遺体を思うどころか足元にリアルに転がってるわけで、明日は我が身。日常のことだからそれが当たり前で、あの中にいるのが自分でもおかしくない現状とか不安とか、戦争と言うどうしようもない事態に対する諦観とか、命に対する尊厳とか慰霊とか、それでも生き残った安堵とか、色々なものが混ざった「綺麗」だと思うよ。
※54
いやそれ待て若すぎるわw
終戦時2歳のうちの親と同じ年じゃないか
祖父母の話は聞けたことはなかったな
沖縄上陸前に本土に逃げた話だけ親から聞いた
親自身も赤ん坊だったからそれすら伝聞
※14のせいでカプチーノにしか見えなくなった
自分の祖父母は母方は夫婦で天津で商売してたけど、とっとと逃げて帰国後また商売始めて一代で会社立ち上げたし、父方も兵隊に取られなかったんで普通に天寿を全うしてる、多分当時体が弱かったんだろう
せいぜい祖父母から聞けた戦争の話は、中国の饅頭めっさ美味い、ってのと、列車から見えた無数の土饅頭の話だな
人のシが限りなく身近にあったというのはわかるよ
※60
※14はパラコートと掛けたブラックジョークだと思ってたw
※19
似たような話ネットで読んだなぁ
海外に居た日本人に外人が「日本人は戦争反対だと言いながら、いざ戦争が始まれば従軍する。矛盾している」と批判する話
その日本人は「国を愛してるからこそ反対する。だが戦争が始まってしまえば国を愛してるからこそ戦う。何も矛盾してない」って言い負かしてたけど
なるほど、お祖父様は周りの女子供が上陸した敵兵に何されても同じ事を仰るのでしょうね
※58
そういうのは分かるよ、
でも苦労せずに済んだ側がそういう背景も話さずに簡単に言うのは違うと思う。
死んだ父方の爺さんも満鉄勤務だったんだよなぁ
生前ちゃんと話し聞いておけばよかった
母が嫌うからあんまり話せないまま死んじゃったよ
私にとっては血縁者なのに
という気持ちで戸籍を辿れるだけ辿って取り寄せたら、戦死してる人、明治時代開拓民としてハワイやアメリカに渡ってる人なんかがたくさんいて、こういう先祖たちのおかげで今があると思ったら、胸熱だったよ。
祖父母がおなじ、社員で満州から帰ってきたわ。
贅沢と浪費が抜けなくて、田舎にしては珍しいものを集めたり体験したりしてた。
帰国時の話は早い時期に帰ってきたそうだし、鬼気迫る体験はしないで済んだ。
私も父の会社の絡みでアジアで豪遊して来た時に、ああ、この貴族生活か、と実感したよ。
良い時期の満州にいたのよ、ってのが祖父母の自慢だったのよ。
代々みて思うんだけど、貧困層は普通の人と違ってとにかくジッと座ってられないんだよ。
学問を収めることが出来ないし、すぐ感情的になる。泣いたりわめいたりうるさい。
自分の手を汚さないで喧嘩できる様になったら、貧困から抜け出せるかも。
父親は終戦間際に徴兵年次前の志願兵になったんだけど戦争の話はほとんどしなかったわ
断片的に言ってた話と戦後潜水夫したってあたりから、かなり悲惨な特攻させられかけてたらしいけど
ちょっと聞き出せない話
戦後アプレてゴム紐の押し売りなんかもやってたみたい
ペ、ペチコートを羽織る、だと…?
ペチコートって下に履くやつとちゃうの?
小学生の祖父母が戦争体験ありって時代のあの頃は
自虐史観満載の授業だったし戦争の悲惨さだけを殊更に言い立てて
その悲惨な戦争をした日本が一番の悪みたいに言うのが正解だった
(それの全部を間違いとは言わないが)
つまり戦争体験聞いてこいは悲惨な話を聞いてこいって事だった
だから悲惨じゃない話は微妙にスルーされたし逆に悲惨であればあるほど
誤解を恐れずに言うなら「受けた」(教師の意図に沿ったものだった)
でもホントに悲惨な経験をした人は多分口をつぐんで話したりしなかったと思う
子供相手なら特にね
田舎で集団疎開を受け入れた側だったけど
地元民は、わらぐつ・蓑・もんぺ
東京人は、ゴムの長くつ・レインコート・襟付きのシャツ
着ているものが違うと憤慨していたなぁ
でもって東京人が最後まで食べられなかったのは「イナゴ」だそうだ。
流れる星は生きている、また読みたくなった。
※25
39に加えて、東京都内だが爆撃を受けにくい地域、というのも存在した。
軍の工場が近いがその場所自体は農村部だったため、爆撃はみんな工場に行ってその地域はほとんど被害を受けなかったらしい。
その辺りの事情は本人しか分からないことだから、もし御存命で25の興味が尽きていないのならもう少し詳しく聞いてみてもいいんじゃないかな?
うちの婆ちゃんに語らせると、
よく聞けば悲惨な話なのに、語り口がおかしくて
子供たちがみんな笑い転げてひとつもメモを取ってないなんてことが
良くあったそうだ
ばあちゃんは栃木住みで、ある晩に夜なのに南の空が真っ赤になってて
なんだろうと思ってたら3月10日の東京大空襲だったって言ってたな
アニメ映画「火垂るの墓」の終わりの部分に登場した
戦争が終わって疎開先から豪邸に戻り、蓄音機で
「埴生の宿」を聴いている金持ちのお嬢さん達を
思い出した・・・。
うちのじーさんもアメリカの爆撃機からの鉄道の一斉掃射にあった口なんだが
なんか楽しそうに話してたな……(満員列車の中で一人だけ助かったそうだけど)
つらく悲惨な話ほど人は語りたがらない
自分がやってしまった人道に外れることや、ずっと恥じている体験を孫に話せる祖父母がどれだけいるだろう
戦争は風化する
記憶は時に捻じ曲げられ作り物になっていく
戦争をやりたがる人は戦場で臨戦状態のまま2ヶ月過ごせばいい
自分がおかしかったのかそれとも無知だったのか、はたまた今おかしくなっているのかわかるから
何が言いたいのかというと、こういう悲惨な話こそをたくさん発掘して遺さなければならない
都合のいい英雄譚からは学べないのだから
俺ももっと話を聞いておくべきだった。
両親とも台湾生まれ。祖父母は皆日本から台湾にわたって台湾で結婚し両親を生んだ。
母方祖父は向こうの師範大学卒、母方祖母は高等女学校卒、どちらも台湾で教員をしていた。
台湾人にも教えていたようで、台湾の教え子たちから同窓会をやるからと、航空券まで添えて
招待状が届いていたとか。でも、日本統治の責任を感じてか引き揚げてからは、一回も台湾には
いかなかったようだ。
父方祖父は書道の道具や書籍を買いに、よく台湾に行っていた。
もっと台湾の話を聞いておくんだった・・・
※76
そうだね
チャーチル、スターリン、ヒトラー、ルーズベルト、蒋介石…
みーんなに贈りたい言葉だね
※67
たぶん聞き間違い
×ペチコートを羽織り
〇ペチコートを履いて
※70
『流れる星は生きている』があまりにヒットして一気に家計が潤ったので旦那さんが
「だったら俺も作家になる!」といってほんとに作家になっちゃった
(のちの新田次郎)
世の中何がどう転ぶかわかんないわね
こういう話聞いて思うのは、戦争が悪というよりも、自国の領土が戦場になるのが悪なんだな。
実際第一次世界大戦のときは日本の領土が戦場にならなかったからなのか、戦争成金とかいたらしいしな。
※81
成金レベルじゃなくて日清日露とか国が潤って国家が育ったという側面がある
アメリカなんかは戦争ででかくなった国だしなぁ
いまだにその尻尾は持ってるわけで
コテンパンにやられて「戦争だめ、絶対」にひっくり返った日本が特殊なのかもしれない
でもさ、今まで戦争を知ること無かった世代のウチらが今まさに戦争に向かってんだよね
このままアベの軍国独裁政権を野放しにしてたら自分がコ・ロす側になるって気付いてほしい
コ・ロされてもコ・ロす側にまわったらお終いだわ 日本国民として二度と他国を侵略したらダメだよ
ペチコートにすべて持ってかれたよね
ペチコートを知らない俺ググって大笑いw 全然コートじゃないしw
※76
ほんこれ
ユダヤ人とかも実際そう
だからいま住んでる国ではネトウヨみたいなのが沸いてユダヤ人ヘイトスピーチしまくってたのに
実はそいつはユダヤ系でしたとかいうアホなことがある
祖父祖母は単に体験を思い出したくもなく喋らなかっただけだってのに
祖母は当時18で市役所務めだったそうだ。
開戦しアメリカ軍がいざ上陸という頃に年老いた祖母の祖父と母と下の妹と避難することになったとき、軍属のお偉いさんから北へ逃げるように、とこっそり告げられ徒歩で島を北上した。
若い娘だった祖母は髪を切り顔を汚し男の格好で妹をおぶって陽が暮れるとひたすら歩いたと言っていた。敵に捕まれば犯され殺されると言われていたと。日中は墓の中に隠れていたらしい(こちらの墓は中にある程度広さがあるものが当時一般的だった)しかし墓や鍾乳洞に隠れているとそこに軍人がやってくることがままあり、その場合はそこを明け渡し僅かな手荷物や食料なども全て置いていかねばならず声をだせば女だとばれて外へいくこともできなくなる。飛行機の音がする明るいひなたを歩くより、その時の方が何倍もおそろしかったと言っていた。
北部の森に着いた頃はひどい有り様だったが森は静かで空爆もあまり無かったらしい。ただ長引くガマでの生活で食糧が底を着き、乏しい水だけで数日過ごした後もしもの為にと持っていた手榴弾をみつめる頃に外から拡声器の声がした。戦争は終わったでてこい、外国訛りのその声に出ていけば捕らえられ殺されるのでは、だけどここにこうしていても飢えて死ぬと止める家族を振り切って祖母は外へでた。祖母だけ行かせる訳にはいかないと祖母の祖父もそれを追いかけ山を降りた。
ふたりは捕虜となり近くにあった駐屯地に連れていかれた。
そしてそこで水と食糧を手渡され替えの衣類も貰えたそうだ。キャンプには物質が山積みにされており、アメリカ軍人達は誰も祖母を犯したりはせず怪我がないかと気遣われ警戒する祖母にチョコレートをくれたらしい。
その後、山にいた家族とその他の同じガマにいた人達は投降した。
なんかすごい良い作文を読んだ感じ。
小~中学校でコンクールに出したら賞が取れそう。
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