2017年08月16日 18:05
http://kohada.open2ch.net/test/read.cgi/kankon/1501621674/
何を書いても構いませんので@生活板48
- 600 :名無しさん@おーぷん : 2017/08/15(火)13:24:05 ID:EaC
- 終戦記念日になると思い出す祖父の話
当時学生だったうちの祖父は終戦間際に召集されて九州で終戦を迎えてる
すぐには帰れずやってきた進駐軍の荷物整理を手伝うことになった
でも進駐軍とはわりと仲良くやってたようで
みんなギスギスすることも敗戦だって暗くなることもなかったみたい
ある時に進駐軍の主計さんたちが運ばれた荷物のうち箱が少し壊れたやつを
「いつもよくやってくれてるから内緒な」って祖父にくれた
箱が壊れた物資は廃棄する決まりだったそうで
祖父を気に入ってた主計さんたちが何個かちょろまかしておいてくれたらしい
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- 中身は何か?と祖父が聞くと
主計さんは「お菓子さ!きっと美味しいぜ!」とニコニコ教えてくれた
甘党なのに甘い物をひさしく食べてなかった祖父は大喜びで礼を言って
仲間のところへ箱を持って帰った
わくわくみんなで箱を開けると中には始めて見るチューブが何本か入っていた
アメリカ菓子だ~!チューブ入りって珍しいな!って
みんなでチューブを咥えて吸ったら全員悶絶
チューブの中身はお菓子ではなく歯磨き粉ですんごい辛いミント味だった
戦時中は物資不足でチューブ型の歯磨き粉がほぼ出回ってなかったせいで
祖父たちはそれが歯磨き粉と気付かなかったらしい
主計さんの一人が慌てて「すまん!あげる箱間違えた!」ってやってきたが
時既におすしな状態でなんか滑稽で彼も交えて大笑いしたそうだ
祖父曰く薄暗いように思われるあの頃だけれど
わりと下っ端は明るく楽しくやってたんだぞ~とのこと - 604 :名無しさん@おーぷん : 2017/08/15(火)16:36:15 ID:t8i
- >>600
いい話
教えてくれてありがとう - 607 :名無しさん@おーぷん : 2017/08/15(火)17:51:16 ID:jok
- >>600
物がない時代って感じだね
空自の黎明期にも、合衆国軍のキャンプと隣接してたんで笑い話がいっぱいあるよ
逆性石鹸を洗濯に使ったら、制服が逆に汚れたり
レモンジュース(警戒警報)という符丁で知らせを受けた人が
「リンゴのジュースはあるけど」と電話口で答えた話とか - 612 :名無しさん@おーぷん : 2017/08/15(火)19:45:15 ID:teX
- >>600
いい話をありがとう
心暖まるエピソードだ - 608 :名無しさん@おーぷん : 2017/08/15(火)18:28:30 ID:V4w
- >>600
有り難う
こういう類いの話好きだ
自分の祖父は戦地に赴いたうえ帰国後しばらく様子がおかしく
一度自●を図ったこともあったとかで直接詳しく話を聞く機会を持たぬまま逝ってしまったけど
大正から昭和初期くらいに活躍した作家がたまに書いてたりするんだよね
戦争の話メインの本じゃなくてあくまで色んな話の中に
何気なく当時のことも書いてある感じ
あと戦争の話メインだし少し重いけど「ホタル帰る」という本とか
ドイツ人俘虜の資料なんか見ると
そこに“生活”があったんだなあと思う
その時代を生きた人の数だけ戦争があるというかね
テレビの特集や教科書では最低限これは書かなければという項目や
興味を引く、それでいて繰り返してはいけないと思えるような
気の引き締まる内容にするし
それは基本的に間違ってないと思うけど
実際はそこで生活している人一人ひとりに日々色々な感情が生まれていて
憎しみ悲しみに暮れることもあれば
プッと噴き出す瞬間もあったんだろうなあとか
被災時もそうだけど人ってずっと緊張した状態とか同じ感情で居続けることできないからね
戦争そのものの陰惨さやそれを受けての教訓やそういう話が一番大事なんだろうけど
同時にそういう日常の生活も大変興味深い
コメント
うちの爺さんも、開戦初期の頃からラバウルに居たけど、凄く楽しかったみたいで現地での交流や楽しかった事ばっかり喋っていたわ。
勿論、空爆や機銃掃射で誰々が死んだ~とかも言ってたけど、人生で一番思い入れの深かった時期だったのか楽しそうに話す爺さんが好きだったなぁ・・・
今では重度のアルツハイマーで人形みたいになってしまったけどな。。。
ウチの祖父は、終戦間近に召集され硫黄島で亡くなった。高射砲担当だったからあっという間だったろう。
報告者の祖父が以外と楽しかったと言うのは勝手だが、他の人もそうだったかの様な物言いは不快だ。
※2
横だが
「不快だ」と表明することで
他者を萎縮させる米も「不快」だ
「色々な人がいたんだな」じゃ駄目なのか
本当、戦争話はメディアは苦しい苦しいしかやらんから、見るの嫌になる。
戦争を起こさない様に~言っても、話は感情論ばっかりタブーばっかりで、正面に総括出来無い感じ。
その日本の自縄自縛状態のお陰で、知らんうちに中朝韓がじわじわ日本飲み込んでるし。
うちの地元は空襲がない田舎だったけど曽祖父は徴兵された、無事に帰ってきてくれてよかった
農家だから米はあるけど徴収されてたから満足に食べられない、だけど働かないと来年の米が作れないからっていう、結構ひもじい状況だったらしい
米2です。
そうですね、色々な立場、人がいるのですからね、不快にさせてすみません。
※6
すまん、言い過ぎた。
そちらの気を損ねてしまったかもしれないが
分かってくれたのは嬉しい。ありがとう
何れにしても戦争に関わってない世代が伝聞と決めつけで色々講釈垂れるような話じゃない。
※6,7
おまえらいいやつだな。 ちょっとうれしくなったぜ。
うちは原爆のとこの隣県というか県境なんだけど、
当時高等女学校?っていうの?とりあえず学生だったばーちゃんは
隣県から助けを求めて来た人の世話で学校に駆り出され大変だったそうだ
じーちゃんは何故か岩手に居たらしく「芋ばっかで飽きた」と言ってた
ばーちゃんは元教職だったから平和教育の為にか、聞けば戦争の話をしてくれたけど
じーちゃんははぐらかしてばっかで、教えてくんなかったよ
自分の苦労をひけらかす人じゃなかったから、言いたくなかったんだろうな
結局、当時を生きてた人にしかわからないよな
むしろこういう人間の変わらなさが分かるエピソードの方がよりリアルに感じられて良いと思うんだけど
そこにちゃんと自分と変わらない人間の生活があったんだなって理解出来る
戦争は悲惨です惨いですばかりじゃ耳タコ状態だし
※6,7
ほんといい奴らだ
俺もみてて嬉しくなった
先の大戦は、何処が激戦区だったか、何処か赴任地だったかで随分感想が違うと思う。
のんびりしたとこはのんびりしてたんだよ、台湾なんぞ日本軍来てくれてありがとう!
だけど、血で血を洗い、その当時の政治的局面全く関係ないのに日本戦局的に
重要地域と認めた地域住民にはかなり、かなり絶酷いことしたからな。
うちの父方の爺さんは自由人だったので海軍で結構楽しくやってたようだ
母方の爺さんは陸軍で、毎年一回軍人会に出るのが楽しみだった
無事だった人や楽しかった人は、悲惨だった人に配慮して何も言わないだろうし
まあ推して知るしかないよな
反戦派ももちろんいただろうけど、今とさほど変わらないレベルでみんな生活に夢中で、政治にはあまり興味なかったと思う
なんならワールドカップぐらいの感覚で勝ったら盛り上がって負けたら盛り下がる、その程度で、難しいことはよくわからんし知りたくないという人も多かったろう
結果論で今はメタ的に語れるけど、当時はネットもないし、情報がなければ一般人はどうしようもない
ただその日の上司の命令に従うだけ、村長さんの決定に従うだけ、先生の指導に従うだけの毎日よ
うちのじいさんは何も話さずにあちらに行ったけど、
南方だったので口に出せないつらい思い出があったんだろうと思ってる
この手の話が好きな人には「決戦下のユートピア 」という本をおススメする。
戦時下であろうと庶民はそれなりにたくましく生きてたというのが分かる。
こういうことをなぜか隠そうとする人たちもいるけれど、事実は事実だしね。
確か小林よしのり「ゴーマニズム宣言」にも父親の親類?が戦後まるまる太って復員してきて「戦地はごっつ楽しかった」と語ってたって話があったな
未見だけど、ちょっと前に話題になった「この世界の片隅で」とやらも似たような切り口の内容だと聞いた
厳しく辛く暗い戦争、その中でも強く明るく未来を信じて生きるのよ!とまなじり吊り上げてるわけでもなく、
貧しく不自由な中でも日々の人間の営みの中では笑顔になるような普通の日常ももちろんあるんだよ~的な感じだとか
考えれば当たり前なんだけど「あの悲惨な戦争を繰り返してはならぬ」みたいな側面ばかり強調されてきたから
そういうのも新鮮ではあるよね
まぁ逆にこないだEテレでやってた「ソ連兵に開拓団を守ってもらうために接待所を作り村ぐるみで村の若い未婚女性に身を差し出させ
帰国後はその女性達は蔑まれた」みたいなあれな話も大事ではあるけどね
たまたまラッキーだった祖父の話だね。
※17
ごめん、横槍入れる積りはないが、それは
『事実は事実、でも俺等的真実はこれが真実』 じゃなかろうか?
日本が第二次世界大戦に大敗したのは 『事実』 でもそれら纏わる枝葉な話は
各々立場から見たWWII戦争の 『真実』。
戦争知らない俺も世界あちこち行って、その当時の爺婆さんと酒飲んだけど、
言えるのは、『その当時、その地の情勢はどうであったか?』 がかなり大きいよ。
楽しかったーのんびりしてたーありがたかったーと言うとこは台湾みたいな地だったし、
逆に 鎌持って夜討ち掛けるようなとこは悲惨な土地だった。
ここの過去の記事かな? 忘れたけど。
戦時中も戦後も、上流階級のお嬢様として苦労知らずで物資も豊かで何不自由なく暮らし、家族の誰も戦死することなく、敗戦でボロボロになった平民を乞○と見下してプークスクスしていたとかいう投稿者の祖母の話があったよね。
同じ日本国内にいるのに、格差激し過ぎ…。
うちのじいさん、台湾に出兵してたんだが、上官の黙認の下、日がな地元民と山と海で食料捕獲に勤しんでたって言ってた
マスコミは、若い世代に本当に戦争の悲惨や悲劇を伝えたいのなら、今も止まない他国の内戦状態を体張って報道し続けるのが直接的だと思うんだけど、ペンを権に持ち換えてる現状じゃ絶対しないんだろうな
自分の爺さんもこの投稿者みたいな感じだったなー
海軍だったけど暇で毎日釣りばっかやってたって
だから逆に戦争の悲惨さとか戦争責任とかの話になると「いやでも俺らはこうだった」って言い出して
全然話にならなかった
かと思えば旦那の祖父は南方で戦死して骨も帰ってきてない。
色々な人がいた、てのを知るのもまた戦争の
を理解することだと思ってる
戦争体験は辛く悲惨でなければいけないわけじゃないわなぁ
ひいじいちゃんが戦争に行ってたな。どこかは知らないけど
あんまり狙われる事が無い平和な所だったらしくたまに飛行機飛んで来たら隠れてやり過ごしてたとか
何回か撃たれたことがあるといってその傷跡だという白くなった丸い痕を見せてもらった事があるけど誰も信じてなかったなw
ふんどしでウロウロする元気なおじいちゃんだった
ちょっと戦地が広すぎてwいろんな体験談出てくるよねw
でも沖縄戦と広島長崎の爆心地は笑い話もしづらいと思う
※21
ああなんか見た気がする
さすがにお金持ちで全く不自由ないどころか他者を見下すっていうのは不快な気持ちになるよね
抑圧されて自分の希望なんかも言い出せずひたすら耐える日々、みたいなのは読んだりするけど、なんだかんだ楽しくやってたっていうのはやっぱり聞かないから少し安心するというか…でもやっぱ悲惨な戦争体験って感じの話が思い浮かぶから戦争はイヤだ
※21
あったね。
でも不具になって帰ってきた元兵やホームレスを見下し汚い物・忌まわしい物扱いしていたのは
上流階級だけじゃなく同じ庶民もなんだよね。
はだゲンやホタルの墓見ても復員兵やみなしごをからかったり陰口叩く人々の姿も描かれている。
沖縄で地獄の様な戦争が起きてた頃、大叔父は
石垣島でオオウナギ(2メートル)と格闘していたそうだ。
小隊全員で食っても余ったらしい。
昭和7年生まれの父は終戦時中学1年生、まさにギリギリで戦争に行かなくてすんだ世代。ちなみに父は8人兄弟の5番目、4男坊で長兄は南方で戦死している。私が高校生の頃、戦争時代のドラマや小説を立て続けに見たり読んだりした。それらの戦争中の男子小学生や中学生は皆早く戦争に行きたがっていた。なので父に何気なく「お父さんも戦争中は早く兵隊になって御国の役にたちたい、とか戦死した兄さんの仇をとってやる!とか思ってたん?。」と尋ねた。(ドラマや小説ではそういうのが定番だったので。)すると父は肩をすくめて「そんな阿呆なこと思うかいな。お父さんは戦争へ行くのが怖ぁてしゃあなかった。たのむから早う終わってくれ、って毎晩祈っとった。」と予想外の返事が返ってきた。無論五十路も過ぎた今は少年だった父の恐怖もよくわかる。しかし当時は多感な高校生、自分の父親が好戦的な性格でなくてほっとする一方、自分のチキンな性格はこの人からの遺伝だったんかい!とビミョーな気持ちになった。それから12年後、結婚した私は父と同い年の義父にも同じ質問をしてみた。義父も8人兄弟だったがこちらは長男、しかも戦争中父親は病に倒れ、母を助け弟妹の面倒を見、畑をたがやす、まさに「大黒柱の兄ちゃん」だった。義父曰く
「俺が戦争にとられたらおふくろや弟妹はどないなるねん。戦争なんか行っとれるか、頼むさかい早う終わってくれ、って毎日祈っとった。」だそうだ。
お義父さん、素敵!と惚れ直すと同時に「お父さん、同い年なのにやっぱりちょっと情けないよ。」と、12年ぶりにビミョーな気持ちになったのだった。
私の母は戦争中、彦根市郊外に疎開していた。疎開先の伯父伯母はとても良い方だったが、伯父さんは畑から帰る途中、アメリカの飛行機が落とした爆弾で左腕を奪われた。たんぼや畑ばかりのド田舎のその村に何故1発だけ爆弾を落としていったか・・・推測だが、どうも爆弾を沢山積みすぎて重くて、途中の村に1発だけ落っことしていったらしい。結局終戦までその村に落とされた爆弾はその1発が最初で最後。よりにもよってその1発に当たってしまった伯父さんは不運としかいいようがない。
祖母が軍港のある市に住んでいたが戦後米兵が女探しをしに家探ししてくるから押入れの布団の間に身をひそめてたらしい
屋根裏または軒下ならまだしも押入れなんて本気で探したらすぐ見つかる気がするんだけど
戦争メシでアメリカ兵にスパムもらってついでに米もねだってスパム炒飯作ったらアメリカ兵が俺にもつくって~って言ってきた、みたいなエピソードあったよね。あの戦争はアメリカ兵の物質力が違いすぎる。
※31
非戦闘員を安全な位置から攻撃する、それがアメリカ
同じ九州在住だった祖父は招集されて南方で死んだらしい。残された祖母は生涯独身で長男を父親がわりに、かなり苦労したと聞いた。
自分の父親が末っ子で昭和19年生まれだから、あと1年あれば報告みたいな状況もあったのかもしれないのか。なんだかやりきれないな。
軍隊ってブラックなイメージもあるけど
農家の次男三男坊からすれば「毎日白いご飯が食べられて、休みの日がある!」って面もあったみたい
(陸軍が脚気による死者を多く出したのも「白米を出さないと士気に関わる」という理由)
同じように女工さんなんかも「現金収入があって、毎日白いご飯が~」って感じだったとか
そりゃ膿家スレの世界が日常ならそうなるよなぁ…
楽しい話をするのは、辛い話をするのが無理だからだよ。
うちのじいちゃんも嬉々として珍しい体験の話をしてくれてたけど
死が近づいてきて、終戦が近づいて上官が拳銃自タヒしたのを、病死として内密に
全て一人で処理したとか、そんな話をしだしたよ。
四六時中暗い顔してもいられない、でもやっぱり辛い話の方が多いと。そりゃそうだわな。
大資本のマスメディアは資料に基づき戦争の悲惨さを訴え、
日常の喜怒哀楽は伝聞の話としてネットの片隅で語りつがれる。
ある意味、正しいメディアの在りかたなのかもね。
戦争が終わってこの人たちがともに大笑いできるようになって良かった
本当に
ホント住んでた地域や立場によるでしょ。
うちの祖父は父方母方どちらも理系の研究者どちらも技術者で徴集免れている。
技術者の母方祖父は満州にいたけど敗戦前に安全に帰っている。
両祖母も田舎住まいだから空襲や食料不足とも無縁。
一方で祖父の弟は徴集され戦後シベリアに抑留されていたし当時県庁所在地に住んでいた祖母の友人は空襲で逃げ惑い川に浸かって流されないよう必死で葦を掴んでいたとか。
お陰で今でも打ち上げ花火は音が空襲を思い出して駄目らしい。
職場で仲良くなったお爺さんも南方で終戦を迎えアメリカ船に送ってもらうも動けなくなったら息があっても海に捨てられるから必死で食事に食らいついた話をしてくれた。
同級生も祖父が戦争で亡くなっている子、腕や足を失なっている子もたくさんいたな。
うち物心つくまえに祖父がどっちもなくなってるからそういう話しは全く聞けないかったんだよなあ
祖母はちょっとだけ話してくれたことがあるけど、田舎で空襲もなければ食べ物も割と豊富だったらしくて「あんまり苦労しなかったのよね・・」とのこと
ただ疎開した親戚がきたら流石に取り分減ったのは面白くなかったそうだが
これって戦争の話じゃなくて戦後の話だよなあ
祖母からは、食糧不足や空襲の話はなかったけど、曽祖父が警察に連れていかれた話を聞いたな。
出征する村の若者たちに村長が「君たちは村の未来を担う青年だ。みんな立派に皇軍兵士の務めを果たし、再びここで会おうではないか」と言ったところ、
最後の一言を「反戦行為の扇動だ!」と特高に密告した正義厨がいて、村長が捕まり、役員として同席していた曽祖父もつれていかれたらしい。
曽祖父はすぐ返されたが、村長は長く拘束され、釈放されたが寝込みがちになって戦後まもなく亡くなったらしい。
誰が密告したかは曽祖父も村長もだいたい見当がついていたが、あえて言わなかった。
村長は亡くなる前、「失言ではなく本心だ。今の日本のザマをみればわかるだろう。死なせたくはない」と言っていたらしいけど、自分だけでなく曽祖父が巻き込まれたことは気にしていてお詫びされたらしい。
良心的徴兵拒否をした人ってどうなったんだろう
牢獄にぶち込まれて毎日毎日憲兵あたりにボコられてたのかね
戦時下だってほっと息を抜いたり笑顔になったりできる事もある。
考えてみれば当たり前の事なのかも知れないね。
起きる事何もかもが悲惨で目を覆わんばかりの不幸ばかりだったら、
みんな絶望して生きて行けなかっただろうし。
こういう思い出が焼け野原から日本を蘇らせてくれた原動力だったのかもね。
やだ、この米欄年齢層高いw
アラフォーの自分には何のエピソードもないなあ
じいちゃん家の2階畳の部屋はいまだに昭和天皇の写真?がかざってあるくらい
じいちゃんの兄弟の部屋だったと思う
自分が物心ついたくらいからずっとそのまま変わらない
南方に行った祖父の話は怖かった。
次は自分が突撃して死ぬ番…と思ったら大砲が敵地に着弾して免れた、野戦病院で…など色々。
逆に祖母はど田舎の田畑持ちの子なので食べ物に困らず、都会が燃える火を見て、わぁきれーいと無邪気に思ってたんだとか。
終戦前後の九州護衛部隊なら「護南」と呼ばれた第146師団所属だったのかな
沖縄本島で生まれ育った私は戦争イコール楽しい出来事もあったとは全く繋がらなくて目からウロコ。
父は終戦時、8歳だったので結構覚えており、戦火を生き延びたが、疎開で離れた祖父が祖母と父以外の妻子を連れて帰ってきて跡目争いが大変だったらしい。
母は4歳で双子の妹を戦争で亡くした。それでも地上戦の中、泣くことも許されず(泣くと口と鼻をふさがれた)国頭から歩いて那覇を目指して生き延びた。戦後、不発弾が近くで暴発し、命は助かったものの片耳の聴力と友人たちをなくしたと聞いた。
曾祖母は民間の飛行機の音ですらパニックを起こしてしまうようになっていたし、戦時中は辛かったとしか聞かなかった。戦後は生活するために幼いながら働いて家族を養ったらしい。
ただ、アメリカ統治下で食用油と軽油を間違えたり、アメリカの物資の使い方が分からなくて大変だったと笑いながら教えてくれたなぁ。
歯磨き粉をチューブ入りチョコレートと思って、口内に垂らしたら辛いミント味で驚いたというのは鉄板だったw甘党がやりがちな事だったのかな。
※46
直に戦争体験世代はいなくなるんだから、その前に機会があれば語り部さんの話を聞いておくべき。
大正14年生まれの亡父は、兵隊行って、米一俵持って100m位走らされたそうだ。
1分以内の者は、外地。1分以上の者は内地にわけられた。1分以内だったにもかかわらず、書記していた人がお百姓さんで1分=100秒で計算していて、内地の八丈島に決まった。運がよかった。ただ百姓の上官の手の平は分厚く叩かれると、酷くいたかったそうだ。敵が上陸してくるといって、八丈島で塹壕掘りばかりやらされていた。
が敵は、飛行機で上空通過して、本土で爆撃おとしてた。
ただただ通過していく飛行機をみていたんだそうだ。
経理が横須賀でいるといって、挙手した結果、終戦は横須賀でむかえた。兵隊の間、食べる物にこまらなかったが、除隊の戦後の食料事情はこと悪かったそうだ。
伯父が特攻隊員だったが、出撃予定日の前日だか前々日に終戦となって生き延びたそうだ。
戦時中の庶民生活なら、主婦の友社から発行されている「戦時中の暮らしの記録」もお薦め。
米軍の落下傘がシルクだったので、村に落ちた落下傘を皆で分けてシャツを縫ったとか、病気の妹のためにビタミンB1が必要とかで、考えた挙句に紙芝居を自作、娯楽に飢えてる子供たちに「じゃがいも2個で紙芝居を見せるよ」と誘ってじゃがいもを手に入れた等々、知恵と力で戦中を乗り切った人々の記録が詰まっています。
俺の祖父は南方で玉砕した部隊に居たから、直接会ったことも無いし死亡日時すらはっきりして無い
最近伯父が亡くなってその遺品を整理してたら祖父の事が色々分かってきたが、日米開戦前には駆逐艦の砲手をしていたのが戦況が厳しくなった頃に海軍陸戦隊に配置されてそのまま玉砕した事が分かった
戦前に祖父が乗り込んでいた駆逐艦は撃沈される事無く終戦を迎えて、その後どこかの港の防波堤を作る時に埋め込まれたらしいので、陸戦隊への配置転換が無ければ祖父から直接話を聞く機会もあったのかも知れないと思うと残念でならない
祖父と祖母は昭和17年に結婚したが、二人は同じ村の出身で祖母は村長の娘で有力者の家系。一方祖父の家はその他大勢の中の下くらいの家。本来身分違いで結婚なんて許されなかったのだが、祖父が戦地での功績で村長より高位の勲章を貰い、反対論を封じて結婚。その後も幸運が重なり将校に昇進した上に大本営勤務で終戦を迎え生還。
歴史って良い事も悪い事も何がどう作用するか判らないよね。
駅前で復員兵の物乞い見た
もう救済処置が取られた時期だったけど大変みたいだった
父は終戦時にソ連に捕まり五年以上収容所にいた
通信兵だったからいろんな情報を知ってると私に他言無用と言いながら機密情報を…
餓死しかかった人が最後どういう扱いだったかとかソ連の食料庫から馬鈴薯のくすね方だったけどね
うちの飲む打つ買うパーフェクトジジイが戦後すぐに賭博と賭場開帳罪で捕まって罰金食らった時の仲間に「地元のGHQの基地で炊事係」やってた人がいたなぁ、とふと思い出した。祖母が判決文取っておいてたのを見つけたんだよねw
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